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December 18, 2004

神仏習合

神仏習合
義江 彰夫
岩波書店
1996-07


by G-Tools

今日、神社と寺院ははっきりと区別されているが、実は明治維新前までは、かならずしもその区別は明確ではなかった。明治政府による「神仏分離」「廃仏毀釈」政策によって、両者は無理矢理分けられてしまったのである。

例えば、全国でも有名な神社の一つである鎌倉の「鶴岡八幡宮」にしても、かつては「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれる神仏習合の寺院であった。
平家物語で扇の的を射るシーンで、那須与一は「南無八幡大菩薩」という神名を唱えるが、「南無」とはサンスクリット語が由来の仏教用語(帰依するという意)であり、「菩薩」もまた、悟りを目指す者を意味する仏教用語である。一方、八幡神そのものは第15代応神天皇のことを意味する。
かつての神仏習合信仰をうかがわせる、非常に興味深い記述だ。

このように、かつて鶴岡八幡宮寺は、薬師堂、護摩堂、大塔、経堂、仁王門を有する「大寺院」であったのだが、明治維新後、これらの仏堂はことごとく破壊されてしまった。これは、貴重な文化遺産の破壊という野蛮な行為であることは言うまでもない。(鶴岡八幡宮の破壊の様子は、「相模鶴岡八幡宮大塔」のページが詳しい)

明治期の「神仏分離」はさておき、本書は、なぜ我が国において「神祇信仰」と「仏教信仰」が対立する事なく開かれた状態で融合し、ついには「本地垂迹説」のような一体化を経て、「中世日本記」のように王権神話まで密教化されるに至ったのかを、史料を綿密に検証しつつ明らかにした一冊である。そこには、マジカルな呪術を中心とした古代の共同体社会から、やがて私有財産という概念が誕生することによって罪の意識が生じ、仏教へその救いを求めて行くというダイナミックな社会構造の変化が関与していたのだ。

従来、神仏習合に関しては民俗学あるいは宗教学の視点から記述した書が多かったが、本書のように、社会的・政治的な視点から史料を検証し、神仏習合の過程を読み解いたものは少なかったので、とても新鮮に感じた。史料に基づく歴史研究の面白さが感じられる一冊である。

投稿者 blog@tsukuba : December 18, 2004 04:52 PM

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