tetraの外部記憶箱

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2005-08-16

_ [news] 宮城県南部で震度6弱

つくばも、かなり揺れた。体感で、およそ震度4くらいか?

_ [log] 歴史認識の共有は可能か?

戦後60年とゆー事で、色々と特集番組が放映されている。で、昨今、やたらと隣国との間で「歴史認識」の相違による摩擦が生じ、反日運動やら嫌韓やらと、やかましくなっている。

しかし、そもそも他民族との「歴史認識の共有」なんて可能なのだろうか?

「歴史学」とゆー学問は、様々な資料から、できるだけ客観的に事実を抽出する学問である。しかし、一般人は学者ではないから、そこまでして事実を追い求める事は、まずやらない。結局のところ、民族の記憶としての「歴史」とは、各々の主観の積み重ねでしかないのだ。

また、民族の記憶は、その民族が自己の集団を認識して以来の長い年月をかけてウイスキーのように熟成されるものであり、一朝一夕に出来上がる物ではない。この歴史認識の核となる民族の記憶が既に異なる以上、主観から構成されている相互の歴史認識をすりあわせる事など、もはや絶望に近い。

それでもなお、隣国と摩擦を減らしていくためには、どうしたらよいだろう?

それは、互いの歴史認識の違いを認め、尊重し合い、歴史認識をすりあわせる事など無意味であるという事に気づかせる事である。ただ、問題なのは、中国も韓国も北朝鮮も、国家体制が自由主義国家ではなく、全体主義に近いという点にある。(韓国もついこの間まで軍政であったし、未だに全体主義的な部分も認められる)我々、自由主義国家の人間は、他人との認識の違いはあって当然と考える。ところが、全体主義国家では国が定めた唯一の認識しか存在せず、互いの認識の相違など思いもよらない。たとえ異なる認識が生まれても、それは時として暴力的な手段により排除される。(「対日関係の新思考」を発表して左遷された人民日報論説委員の馬立誠氏しかり、著書が有害図書に指定された金完燮氏しかり)したがって、彼らの国の国民にとっては、国が教える歴史認識と異なる存在など、あってはならない事なのだろう。

こう考えると、もはや日本に残された手段はあまりなさそうだ。